国学院大学法学部横山実ゼミ


福島第1原発事故の風評被害(?)とF叔母

(これは、2011年3月17日に高校の同期生宛に書いたメールです。)

 正確な情報を早く伝えるということは、大切ですが、今回の原発事故ように、事態が刻々と深刻化している場合には、何時どのように伝達するかの判断は非常に困難です。その際には、経験豊かなリーダーが、即決で、出すべき情報を決める必要があります。しかし、今の日本の社会は、組織全体で動くようになって、トップは、決断するのに時間をかけています。その結果、手遅れになることがあるのです。今回は、手遅れになう直前に、辛うじて、菅首相が対策本部を設置することで、各方面からの情報の吸い上げ、適切に情報を流すようになったといえるでしょう。

 マスコミが早い段階で、最悪の状況を想定して、人々に情報を流すと、その情報はさらに悪く解釈されて、人々の中で、パニック状態が生じます。その一例を、私の身近な例で、紹介させていただきます。

 小名浜に住む私のいとこTは、90歳に近い二人の老人の世話をしています。一人は、実の母親です。もう一人は、独身で過ごしてきたF叔母(私にとっても叔母です)です。Tは、F叔母とも長い間、生活をともにしていました。しかし、父親(3年前に死亡)と母親の両方が病気になったとき、F叔母をいわき市平の老人介護施設に預かってもらいました。

 私は、Tの案内で、今年の正月にF叔母を見舞いましたが、車椅子生活をしています。大地震のときは、介護者によって、安全な場所に避難してもらって無事でした。Tは、母親とともに、津波が襲った小名浜の海岸近く家を離れて、高台の病院に行き、そこで、一晩を過ごしました(海水は、3軒隣の家まで来ましたが、Tの家には来ませんでした。しかし、家には大きな亀裂が生じ、家具などは床に倒れて、足の踏み場もないということです)。そして、高萩の妹Cの家に、母親とともに避難して、16日の昼までそこに滞在していました。

 ところが、3月16日の朝に、介護施設から電話があり、人手が足りなくなるので、F叔母を引き取って欲しいといわれたのです。心のやさしいTは、高萩からの片道分のガソリン(ガソリンスタンドは、欠乏しているので、数時間行列を作って、その程度しか入手できないのです)を入手して、介護施設に行き、F叔母を引き取り、まだ、地震で室内が散乱している小名浜の家に連れてゆき、そこで、F叔母と一夜を過ごしたのです。

 私は、心配して、午前10時にいとこのTの携帯電話に電話しました。食料は4日分くらいあるが、必要なものを買うために、今、スーパーの長い行列に並んでいるとのことです。

 彼に話によると、介護施設から、F叔母の引取りを要請されたのは、いわき市では原発事故で放射能が飛び散るとの風評が飛び交い、30kmを若干越えた平でも、人々が避難を始め、介護者も自分の家族とともに避難をするために、介護対象の老人を、それぞれの家族に引き取ってもらうことだったということです。

 このような状況が生じたのは、20KMから30KMの人々に屋内待機を、菅首相が呼びかけたことに始まるのですが、上記の風評が一概に間違いと否定できないのが、今回の事態を深刻化しています。科学にもとづく説得力のある情報は、広く共有して、とくに、一般の人々にそれを知らせて、パニック状態を引きおこさないことが大切です。

 その後、介護師の女性がきてくれて、4時間介護してくれたお陰で、Tは、F叔母を22日まで自分の家で世話をしました。また、S叔父が、3月21日に八王子からバスに乗って、小名浜に行き、3月28日までTとともに介護に当たりました。しかし、足が紫になり腐るおそれが出ましたし、また、床ずれがひどくなったので、介護師のアドバイスで、知り合いの共済病院に入院させました。病院では、介護者が不足していますので、Tは、S叔父とともに、F叔母の食事の介護のために、病院に通っています。幸いにして、S叔母は、食欲が出て、28日には点滴の必要がなくなりました。Tによると、介護施設の長は、4月4日以降に、施設の運営を再会するので、F叔母を収容できるとの連絡をもらっています。

以下は、いとこTからのメールです。

 大震災中はお見舞い、ご支援ありがとうございました。おかげさまで、F叔母も栄養摂取も改善し、足の壊疽、腰の床ずれも良くなり4月4日生協病院を退院し、「介護の森」にもどることができました。

 母も、いわきの医療、薬補給、水道、ショッピング、介護サービスも旧来通りになったので、3月27日高萩の妹宅からもどりました。病院まで食事介助に付き添ったり、介護の森への引越し手伝い等元気であります。震災前より頭もまともになったようで、食欲も増した気がします。

その後の経過は、次の通りです。。

4月7日 午後11時半 宮城県沖で震度6の地震(マグニチュード7.1)

4月10日 高萩―いわき間の列車が開通

4月11日 午後5時半 福島県で震度6の地震。小名浜でも被害が出る

4月20日 特急で勝田まで行き、そのあと、普通列車で泉に行き、バスで小名浜のいとこTの家に行く。石岡付近から、屋根瓦が損壊した家のブルーシートをみかける。磯原付近では、列車は徐行運転をした。

4月21日 伯母といとこTの案内で、下川の墓にお参りする。多くの墓石が倒壊していた。近くの櫻の名所の公園は、櫻が満開であったが閑散としていた。津波で損壊した漁村への道は、通行止めになっていた。海沿いに小名浜港にゆく。数艘の漁船が、岸壁に打ち上げられていた。小名浜では、津波によって運ばれた泥土は、ほぼ除去されていた。しかし、瓦礫の整理は、まだ続いていた。知り合いのレストランに行ったが、その社長は、水浸しになった店の後片付けをしていた。伯母を家に残して、平に向かった。平の老人介護施設にいるF叔母を見舞った。去り際の叔母の目は、うっすらと涙が滲んでいた。そのあと、裏道を通り、白水の阿弥陀堂に行った。時間がなくて、前から見ただけであったが、堂は無事であった。途中で、土砂崩れの場所があった。また、修理のための自動車や他の県の警察の車両が見られた。泉から普通列車に乗って、また、水戸から特急に乗って(その乗継は、時間に無駄があった)、上野に戻った。

6月上旬 食べ物を飲み込む力を喪失して、F叔母は病院に入院する。

6月16日 午前8時にF叔母は病院で死去。合掌。

Japanese Doll

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